呆気に取られて言葉も出ない美鶴の両頬を、瑠駆真の掌が優しく包む。
「僕が、君を幸せにしてあげる」
言うなり再び顔を近づける。だが、二つの影が重なる前に、美鶴は両手で相手を突き飛ばした。
それほど強くは押せなかった。だが、それでも瑠駆真を多少は突き放すことができた。
「なにする?」
ようやく回復してきた思考をフル稼働させ、美鶴は憮然と瑠駆真を咎める。
「何を突然」
床に座り込み、ベッドに身を委ねたままだが、片手で口を拭いながら見上げる。
瑠駆真は突き飛ばされたものの、軽く仰け反り、左手を床に付いただけ。右手をベッドに乗せ、両の膝を立てて上半身の体勢を立て直し、再び美鶴へ擦り寄る。
「辛いんだろう?」
何が今の美鶴を苦しめているのか、瑠駆真にはわからない。
謹慎処分に意外とショックを受けているのか。謹慎中の美鶴に対して、同級生が心無い嫌がらせでもしたのだろうか?
それとも別の存在が? 唐草ハウスという施設で暮らすかつての同級生が、美鶴に接触でもしてきたのだろうか?
田代里奈。このマンションからなら、歩いて行こうと思えば行ける。
それとも、まったく別の原因か?
瑠駆真にはわからない。駅裏からこの部屋に戻ってきても体調の優れない美鶴に何が起こっているのか、瑠駆真には全くわからない。わからないが、美鶴は辛いのだ。
今、美鶴に与えられている環境も、これから与えられる環境も、すべてが美鶴を苦しめる。そうに違いない。
助けてあげたい。
瑠駆真は美鶴へ膝で寄る。
それに、僕も美鶴も、もはや唐渓高校に通う事はできない。
「ラテフィルへ行こう。学校なんか辞めてしまって、僕と二人でラテフィルへ行くんだ」
二人でなら、どこへでも行ける。
「学校を辞める?」
瑠駆真の言葉はどれもこれも唐突過ぎて、何にどう答えればいいのか、何をどう質問すればいいのか、美鶴にはさっぱり整理できない。
「学校をって、何を言ってるの?」
勢い良く伸ばされた瑠駆真の右手を払おうとしたが、間に合わなかった。左手を捉えられ、動けぬまま相手を見上げる美鶴。
「辛い事なんか全部置き去りにして、ラテフィルへ行こう」
「ラテフィルって、さっきから何を言ってる?」
「ラテフィルは僕の父親の国だ」
「それは知ってる。前にメリエムさんから聞いた」
「なら話は早い。僕と一緒にラテフィルへ行くんだ」
「全然話なんて早くないよっ」
混乱する頭に苛立ちながら美鶴が言葉を吐く。
「何言ってるのか全然わかんない。なんでラテフィルへ行くわけ? それに学校を辞めるって」
「僕も君も、もう唐渓には通えない。学校へ行っても、もう今までのような学校生活を送るのは不可能だ」
「どうしてよ?」
瑠駆真の瞳が大きく揺れた。まるで、漆黒の闇に浮かぶ澄んだ湖面が、星を浮かべているかのようだ。
「それは」
そこで瑠駆真は一度大きく息を吸い、美鶴の手首を握る掌に力を込めた。
「僕が、そうしてしまったからだ」
もう、後戻りはできないのだ。
「雨が、あがったか」
小童谷陽翔はぼんやりと窓の外を眺める。秋雨にしてはずいぶんと呆気なかった。もっとダラダラ降るかと思っていたから、拍子抜けだ。
だが、空は依然どんよりと重い。明るい部分もあるにはあるが、再び降り始めたとて、おかしくもない。
それでも構わない。雨が降っても構わない。陽翔は、雨が嫌いではない。
「嫌いじゃない」
誰に言うともなく呟き、口の端を緩く歪める。
廿楽華恩が多量の睡眠薬を服用したと聞いたのはつい先ほど。廿楽家の使用人から電話があった。ご丁寧に運ばれた病院の名前まで教えられたが、陽翔は行くつもりはない。
死ぬわけがない。あの華恩が、本気で死を覚悟するなどあり得ない。
華恩は車で帰宅し、出迎えた使用人に紅茶を部屋へ持ってくるよう指示をしてから自室へ向った。数分後、使用人が命じられた通りに紅茶を部屋へ持っていく。ノックをしても返事がない。不審に思って華恩の母に告げる。母がドア越しに声を掛けても返事はない。スペアキーで鍵を開けると、ベッドの上でうつ伏せている華恩の姿を発見する。
これは、山脇瑠駆真への当て付けだ。そうに決まっている。
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